「ルームナンバーと恋の呪文」
古いアパートの三階に、305号室という部屋があった。
その部屋には誰も住んでいないはずだったが、夜になると窓に明かりがともることがあった。
近くの喫茶店で働く真由美は、帰り道にその光を見るたびに不思議な気持ちになった。
ある雨の夜、彼女はアパートの郵便受けの前で一枚の紙を拾った。
そこにはただ一行、
「恋の呪文は、相手を変えるためではなく、自分を少し勇気づけるために唱えるもの」
と書かれていた。
差出人も宛名もない。
真由美はその紙を財布に入れた。
実は彼女には、毎朝同じ時間に喫茶店へ来る男性がいた。
本を読みながらコーヒーを飲み、静かに帰っていく。
話しかけたいと思いながら、一度も声をかけられなかった。
数日後。
彼が帰ろうとしたとき、真由美は思い切って言った。
「いつも同じ本を読んでいますね。」
男性は少し驚き、それから笑った。
「実は読んでいるふりなんです。あなたに話しかける勇気がなくて。」
二人は声を上げて笑った。
その夜、真由美は305号室の前を通った。
窓の明かりは消えていた。
ドアには古びたプレートが掛かっている。
そこには小さく、
「ルームナンバー305
恋の呪文研究室」
と書かれていた。
もちろん、そんな部屋が本当にあったのかどうかは分からない。
ただ、その日から真由美は思うようになった。
恋の呪文とは特別な言葉ではなく、
「こんにちは」
とか、
「元気ですか」
とか、
そんなありふれた一言なのかもしれない、と。
連載終了・期間限定で連載第1回を公開中!
風車と怪人キリギリスの話 |
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